今夜は流星群がやってきて、流れ星がたくさん流れます。
家の近くでは曇って星が見えないので、
とっておきの場所に行ってきました。
どうか兄弟姉妹を試みより守り、試練に耐え抜く力をお与え下さい。
人は精神は強くても、肉体は弱いものです。
その肉体が、常に精神とともにあらんことを。
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うちは両親とも敬虔なクリスチャンで、
(昭和ヒトケタなのに珍らしいかもしれませんね)
家に仏壇も無く、お盆も両親とも先祖の墓には参るものの、
それが一年の中の特別な行事といった意味付けではなく、
それよりも小さい頃から、例えば日曜日は教会に行くとか、
ご飯を食べる前にはお祈りをするとか、
時々家族全員で賛美歌カラオケ大会するとか、
そういう面で、ちょっと他の家とは違った環境で生きてきました。
キリスト教というものが個人単位で、
世襲制でも家の宗教でもなく「個人の信じるもの」だったおかげで、
私自身は無宗教です。
もしかすると、家が仏教の方よりも、
幼い頃から「宗教」ということについて考えさせられる機会が多く、
そのために、あえて無宗教となっているのかもしれません。
私は有り体に言えば、仏教(特に禅宗の思想)にも惹かれますし、
キリスト教が好きな気持ちもあります。
また、宗教というのは、時の政治家にとって、
都合の良い道具であったという認識もあります。
そんな感じで小さい頃から宗教について
一歩引いて考える癖があったせいで、
常に客観的に死や生や、生き方について
ある意味、特定の宗教にこだわりの無い
考え方を持っているような気がします。
そんな中、私は偶然にもキリスト教系の大学に進み、
(そういった学校に進んだのは、全くの偶然だったのですが)
4年間、学寮で過ごしました。
その学寮では、寮内の礼拝堂で毎晩6時に夕拝(ミサ)が行われました。
その夕拝は寮生は絶対に参加しなくてはいけないものでした。
欠席する場合は、ちゃんと理由を書いた届け出が必要だったのです。
私は特に、賛美歌を弾くオルガニストの一人だったので、
なかなか抜けることができませんでした。
当然、若い女子大生ばかりの寮ですし、
当時女子大生ブームもあって、コンパの誘いなども頻繁で、
とりあえずその夕拝が終わってから寮を抜け出し
門限破りなどもして遊んだものです。
私なんて、ハッキリ言って夕拝以外、寮にいないような常習犯でした(^ ^;
この寮の礼拝堂には、正面に一枚のキリストの絵が飾られていました。
その絵のキリストは、ランプを持って木の扉を照らし、
その扉をノックしている絵でした。
その絵の意味を、私は長い間知ることは無かったのですが、
ある時、夕拝に出席された学長が、私たちに話かけられました。
「みなさん、この絵におかしなところはありませんか?」
普段あまりにも見慣れているので、特におかしい点を見つけることができない私たちに、
「イエス様がノックしているこのドア。取っ手がありませんね」
と学長。
そういえば!
と、その時、初めてその扉に取っ手が無いことに気づきました!!
「神はいつもあなたの心の扉をノックしていますよ。
でも神のおられる外側には取っ手が無いのです。
その扉を開くことが出来るのは、
扉の内側のあなた達「自身」だけなのですよ」
その学長は、他にも時々寮にやってきて、
うーーん!と、うなるような話をしてくれました。
それらはその頃の私にとって、人生の羅針盤を得るような貴重な話ばかりでした。
若く未熟だった私には、他に思い煩う邪念が多く、
すべての話を覚えていないのが、本当に残念ですが、
その中でも覚えているいくつかの話は、また機会があれば。
学長、お元気でいらっしゃるのでしょうか…。
とおもって調べてみたら、今石益之学長、
既に鬼籍に入られていました。
私もいつか、私の知らないどこかで、
何か一つでも誰かの役に立てることができるでしょうか…。